琥珀のまたたき
著者 小川洋子 私は、父親不在の家庭で育った。母方の親戚全体が父を貶めていた。そしてダメ押しのように「あんたは父親そっくりだ」と言われた。 その理不尽さに気が付いたのはいつなのかわからない。しっかり言語化できるようになったのは社会人になってからだと思う。もともとあんまり活発な方ではなかったけど、九州に移ってからどこにいてもしっくりこず、どこにも居場所が見つけられなくなり、就職してからはさらに苦しくなった。自分なりにどうしてこうなのか本を読んだりしてみたところ、ある心理学の本に、子供に対して親が決してしてはいけないこと、というリストがあり、自分の体験がほとんどすべてそこにあった。自分の失敗がすべて親のせいだとは言えないが、限りなく失敗するように仕向けられていたとは思う。 母は、父を口汚くののしり、貶め、人間的にみじんも尊重しなかった。おかげで私は自分の父親を母と同じように悪く言う子供になった。高校生の時だったか、友人の一人に母の言うままに父の話をしたら「自分のお父さんをそんな風に言うなんて、あんたのお父さんがかわいそう。」と言われ、びっくりした。 関東地方から母の実家のある九州へ連れてこられたので、その時を境に父方の親戚と会うことは全くなくなった。そのため父の肩をもつ意見に触れることはなかった。母方の親戚はみんな母の味方。幼い頃に一方的な言い分ばかり聞いていると、それが真実だと子供は思うようになる。 この物語は、母親の作り出した繭の中で育つ三人の子供たちのお話だ。 三人の子供は上から長女オパール、長男琥珀、次男瑪瑙。母親は、4人も子をなしながら、愛人に捨てられ、手切れ金代わりに与えられた別荘に移り住む。一番下の二女は幼いうちに死んでしまった。 子供を産んでも男にかえりみられず、末っ子を亡くした母親の支えは残った3人の子供たちだけ。彼らを連れてその空き家となっている別荘に引っ越した母親は自分だけの世界に子供たちを閉じ込める。煉瓦の壁に囲まれた家屋と庭だけがこの家族の全世界だ。 閉じられた空間で母親の手前勝手な解釈で作られた世界。おおいに独りよがりで、ある意味滑稽な世界のはずなのに、小川洋子の筆を通すと美しく牧歌的な世界になる。 幼い子供たちを幼いままに、自分の世界の妖精のようにとどめておきたい母親は、オパールの背中に妖精の羽根を、男の子たちには尻尾や鬣を備えることを義務付ける。子供たちはまだ幼いのでむしろ喜んでそれに従う。 普通の家庭なら微笑ましい光景だ。女の子は誰でも森の奥の妖精になりたいはず。男の子は強い騎士や獰猛な怪物になりたいだろう。ところがこの母親は本気なのだ。本気で子供たちを人間ではなく、妖精だと思っている。外の世界で受け入れられない自分を保つために架空の世界を作り、そこの住民として子供たちを利用している。彼女が真剣であればあるほどその光景は醜悪だろう。 狂気の世界はそこで閉じられている限りは何の支障もなく進んでゆく。壁の内側にも四季が巡る。雨も降れば太陽も輝く。三人の妖精の棲む煉瓦のお家は美しい。母と三人の子供たちは仲良く規則正しく生活する。みんなが幸せだ。 子供が幼いうちは、こんなメルヘンの世界はむしろ素晴らしいものだ。母親の作り出した繭の中で子供たちは安心して成長する。ある時期までは子宮のような閉じた安全の保障された空間が必要だ。 外の世界をもたらす者、それは家庭においては父親だ。安全な繭の中にいてもいずれは外に出ていかなくてはならない。それを知らしめるのが父性ではないだろうか。暖かくて安全な子宮から冷たくて敵だらけ、でも限りなく広くて可能性にあふれた世界へと導くのは母親だけでは無理なのだ。なぜなら、母親自身は自分の繭を作り出すために出てきたのだから、この繭こそが最終目的だからだ。そこに自分を愛してくれる男性がいれば、彼女は子供たちを自分の繭から出せるだろう。子供を失っても、独りぼっちではないからだ。 この気の毒な女性の作り上げた世界の中で、それでも成長していく子供たちの様子が美しく描かれる。この物語では母親をママ、と表現する。お母さん、よりも甘くて柔らかい。なぜかは分からない。 ママの作ったいろいろな規則がある。大きい声でしゃべらないこともその一つだ。ママは、この世界の創造主なので、なんでもアリだ。病気も魔犬のせいにできる。この家族は仲良しなので、一緒に合唱などもする。別荘にあった音のはずれたオルガンに合わせて声をほとんど出さないで合唱する。 ヘンだし、奇妙だ。小川洋子の十八番だ。どうしても絵にできない光景を美しく表現する。同じ場所を何回も跳ぶ若者、唇から脛毛の生える10歳の子供の身長の男、猫でも犬でもなく水かきのある生き物…。いままた、声を出さずに合唱する家族だ。それなのに存在しているように感じる。しかも、それは美しいと確信している。 このような世界は破綻するのが目に見えている。小川洋子はもちろん、破綻後の様子を最初に提示している。儚い夢の世界だとわかっているからなおのこと美しく感じるのかもしれない。 妖精のもとに外の空気をもたらすのは、やはり男性だ。どんなにママが注意深く締め切っても、中にいる子供たちがどんなにママに忠実でも、ある日、何の抵抗もなく本人にその自覚もなく侵入者はやってくる。 このよろずやジョーは、「またの名をグレイス」に登場する旅商人ジェラマイヤそっくりだ。彼は雑多なモノを全部身に着けて家々を回り商売をする。食べ物、小間物、金物、玩具、何でもありだ。分類不能。世界がそのまま縮小したような。まさに博物館。図鑑の具現化。活字の世界が実体化して現れた。その雑然とした世界は危険だけどものすごく魅力的で抗えない。特に長女のオパールは、ジョーのやってくるのを心待ちにするようになる。瑪瑙もそうだ。ただ琥珀だけが快く思わない。 ママと同じ、女性であるオパールは男性性に触れることによって正しく成熟する。彼女はママを外から見るようになる。彼女のウソを見抜き、それを言語化できるようになる。彼女は母と対等になり、もはや他人の作った繭の中になどいられない。自分自身の繭を作りに出かけなければ。それが自然だからだ。成熟したとき、母と娘は他人以上の他人になる。自分を閉じ込めようとする母性は敵でしかない。母が娘の作る繭を認めてくれなければ、彼女たちは袂を分かつしかない。 ところが男の子たちはオパールほどの決裂をママに対して行えない。ママはどこまでもママだ。琥珀は後ろを振り返りもせず出ていくオパールを止めることもできず、家のさらに内側に座り込む。好奇心の勝る瑪瑙は、かわいがっている子猫を追って我知らず壁の外に出てしまう。 ママの世界は瓦解した。 ママは、彼女なりに深く子供たちを愛していたのかもしれない。どこまでも自分の支えとして。それがないと自分が生きていけないからだ。琥珀の目を通して描かれた壁の内側が美しいのは、ママが彼らにとってそれなりに愛情深くしていたからだろうか。病気になっても医者に見せない。学校にも行かせない。成長に見合った服も買わずいつまでも幼児のような恰好をさせていても。 それは、親が自分を愛しているのではないことを認めることはものすごく辛くて容易に認められないからじゃないだろうか。オパールはジョーを得て、ママを捨てることができた。琥珀と瑪瑙は違う。いや、瑪瑙には子猫がいる。壁の外に出ても可愛がりたい存在。自分の繭は一人では作れない。一緒に作る仲間がいなければ、外では生きられない。 琥珀の左目は琥珀色となって愛する家族の姿をその中に表現する。琥珀はそれを図鑑の余白に描くようになる。物語を通して琥珀の表現する家族、とりわけ亡くなった末っ子の姿が可愛らしく、それでいて悲しく映る。ママはより内側にこもることができるようになっただろう。琥珀とママは繭の塊を強化しあっている。 瑪瑙を発見した壁の外の人、水道メータの検針員の話を聞いて、読者はそれまでの美しい妖精の世界が実際にはどうだったのか思い知らされる。けれども、みんなうすうす気が付いていたのではないだろうか。子供を閉じ込めて育てている女性の家庭がどれほど荒廃したものか。それなのに解釈次第でどれだけ美しく表現できるのか。それまでの描写は世界に閉じ込められた琥珀の世界でしかない。他の世界を知らないから、この奇妙な家で生きられたのだ。 物語を読むとき、どうしても自分の体験からしか解釈できない。母親だけに育てられた三人の子供たちのお話を母性だけでは子育てできないという見方に偏ってしまうのが自分だったが、そんな悲惨とも言える世界を小川洋子はいつものように美しく静かに見せてくれる。美しいぶん悲しく感じる。
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