世界はモノであふれている。それぞれ何かの理由があって存在している。それぞれはそれぞれの理由で存在しているのであって、分類されたり系統立てされたりするために存在していない。 ところが、人間は分類したり系統立てたり何かの秩序を与えることで物事を理解する。「博物館」の前にある名詞でたいていは何が展示されているのか見当がつく。そしてそんな風に決められたジャンルで収集されたモノたちは、展示されるにあたっては、見学者が理解しやすいように、またできるだけ長く適切な状態で保存されるべく様々な手法と分類方法を施される。 だから、博物館はものすごく人工的な場所なのだ。モノたちはそれぞれの理由で存在するようになったのだけど、自然の力の前では分解し、腐敗し、溶解し、なくなっていく。必ずなくなる。生きてるものが必ず死ぬように。それを様々な方法で引き留めて保存し、しかも人間の方の都合で並べておくのが博物館だ。 テーマの決まっているのが普通だから、たとえば恐竜博物館に行って、ティラノサウルスの骨格標本の隣にステゴサウルスの骨格標本があってもおかしくない。でも本当はものすごく不自然なんだ。そもそもホネになってまで大きく口を開けてどすんどすんと歩いている格好でいるのがありえないし、隣にステゴサウルスが歩いているわけがない。生きてる年代が全く違うし。でも人間としては恐竜のことを知るためにそんな不自然な並べ方をしてもらうことがありがたかったりする。 いままで何の気なしにいろいろな博物館に行ってきたけれど、その裏には多くの労力が使われていることを意識してこなかった。たぶん展示物の性質によって展示する前の処理や展示環境などもある程度は方法論が確立されているのだろう。 この小説はお仕事小説だ。人は普段の生活でも様々な仕組みに助けられている。電気とか、通信とか。コンビニとか、郵便局とか。博物館は日常生活に必須というわけではないけれど、学術的にまたは歴史上残しておきたい物事のためにモノを保存し秩序をもって展示する。そのために働く人々がいる。 そうだとすると、沈黙博物館って、なんだろう。 それは、亡くなった人たちの形見の博物館だ。 なくなった人たちの生きた証。生身の生きた存在であったことを示すもの。 そんなものをどうやって分類し、系統立てて、わかりやすく展示するのだろう? それは、できない、ってことなんじゃないのかな。 人が生きてきた証なんて、なくなるのだ。ほかのどんなものも一緒だ。どうやったってなくなるのだ。生きていた証を残そうとか思い出の品を大切にするとか、みんな無駄な努力だ。永遠に存在するものなどこの世にない。 「ブラフマンの埋葬」では自分より寿命の短いものの存在を愛さなければならない哀しさをこれでもかと感じさせられた。「最果てアーケード」ではただただ死を感じていた。この「沈黙博物館」では至る所に「最果てアーケード」のモチーフが現れる。アーケード、義眼、文房具屋、編み物作家、報われない仕事、成就しない恋愛。誰が見ても失敗の連続の人生。 どう見ても成功した小説家である小川洋子は、作中に出てくる舞台の衣装係やこの小説に出てくる孤独死した全く売れない画家のことをどう思っているんだろう。ラジオ番組で読書案内をしている彼女の語り口は穏やかで理路整然、知的な雰囲気を醸し出しいつでも冷静でいるかのような印象だ。けれども小説の中にはけっこう生々しく悪臭が漂ってくるような描写がある。描写自体はそうなんだけど、彼女の文体で書かれるとなんだか冷たく感じ、ぞっとするような気持ちはしない。それよりも美しい自然の描写、森や太陽や雨雪の描写の方がずっとずっとリアルに感じる。だからというわけでもないけど、衣装係や画家のことも、無意味な人生だとは思っていないような気がする。誰からもかえりみられず、一人で死んでゆく人たちのことを傍からみるよりも優しい気持ちで見ているのかもしれない。 沈黙博物館を支えるスタッフは5人。収蔵品の所有者であり資金を提供する老婆に仕える少女、専属の庭師とその妻、そして語り手の5人が沈黙博物館で働く。 はじめは老婆の頑なな態度にひるむ「僕」だが、だんだん5人の絆とチームワークが固まってゆく。5人でいることに安らぎを感じるようになる。読者は、お屋敷にいるこの5人だけが外界とは別の時空にいるのではないかと感じ始める。けれども、お屋敷のあるこの村ごと本当はこの世ならぬ場所にあるのかもしれない。
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