寡黙な死骸 みだらな弔い

小川洋子 著

奇妙な11のお話が少しずつ重なり合って描かれる。

はじめのお話は、洋菓子店に立ち寄る女性のお話。そこに登場する人物や事物が次のお話に登場する。読み進めていくと、つい、この人は前のお話ではどうなんだったけ、と読み返してしまう。

どれも、不穏な空気を漂わせ、薄気味悪く、それでいて妙に清潔な感じがするのは、小川マジックならではだ。1998年初版と言うことなので、その後の著作と比べれば、惹きつける力は弱いかもしれない。

みだらな弔い…ってなんだろう

寡黙な死骸、は分かる。ような気がする。だって、死骸だから。逆に饒舌な死骸があったら、おかしいだろ。

しかし、みだらな弔い、とは何だろう。

みだら

[「乱れる」「乱り」と同源]

(男女の関係が)性的に乱れていること。ふしだらであること(さま)。「ーな行為」「ーな関係」

三省堂 大辞林 第三版

ついでに「ふしだら」も調べる。

ふしだら

①だらしのないこと。生活態度に規律のないこと。また、そのさま。「ーな生活」

②品行の悪いこと。男女関係にけじめのないこと。また、そのさま。「ーな男女関係」

三省堂 大辞林 第三版

どうやら、「性的に」「けじめのない」弔い らしい。

「弔い」は亡くなった人の死を悲しみ、それを表現することだよね…。それと性的な事柄とはつながらないなあ。むしろ正反対の事象なのでは。だって、片や死、そのもので、性は生だもの。

「乾いた雨」とか、「広々とした隙間」とか…。

小川洋子ほどの作家が、何となく、つながりにくそうな言葉を無理やりくっつけてみて、人々の意表をついてやるぞ的な低レベルの言葉のチョイスをするはずがない。きっと、深い理由があるはず。

死と生がセットになって登場する

亡くなった人を悼む人は、生きている。死を意識しているが、それだけに確実に生きている。悲しめば悲しむほど逆にその人は生き生きと生きている。ネットサーフィンなんかしてぼーっとしてる人なんかよりずっと生きている。みだらな弔いっていうのは、ものすごく悲しんで、あとさきも考えられないほど亡くなった人に恋い焦がれている、と言うことなんじゃないかなあ。

幼い子供を亡くす、決して結ばれることのない人を愛する、年齢の違い過ぎる人に恋をする、等々絶対に成就することない欲望はいろいろある。思い余って相手を殺めてしまうことも世の中には数限りなくある。殺してしまっては、どっちみち自分の気持ちは伝わらないのに。

執着と愛は紙一重

愛って、執着なんじゃないだろうか。相手のあることだから、受け入れてもらえるうちは丸く収まるけれど、ひとたび拒否されると、悲しいし、ショックだし、怒りもわく。しょうがないな、と思って他に愛情を求めればいいのに、なかなかそうはいかない。この世には男も女もたくさんいるのにねえ。

子供を失った悲しみは、それ以上だ。唯一無二の存在を失って、正常にいられるわけがない。悲しんで悲しんで壊れてゆく。悲しみの中に溺れるように浸っていると、人間関係も失い、持っていた他の愛情も失ってしまう。

自分の感情の赴くままに生きるのは、どんなにそれが仕方のないものであっても社会の中では許されないし、本人にもいいことが一つもない。愛情だけでなく、どんなものでも人でも流れるように変わっていく。それを引き留めようとするのはムリなのだ。

そうは言っても…

ムリげーを押し通すところに物語が生まれる…のかな?誰にでもある執着心だから、気持ち悪いとか、カッコ悪いとか思うと同時に、自分にも思い当たるフシがあると思うと無視できない。なんとなく魅力も感じる。

小川洋子の小説はそんな気持ちを上手に楽しませてくれる。

初期の作品であるためか、吸引力は私にはそれほどなかった。妙なお話がどんどん続くのねえ…と思う程度。どっちかと言うと、表紙の絵や、挿絵の強烈さの方が印象に残る。果物のなかでもかなり好きな方であるキウイフルーツを、こんなに気持ち悪く描く画家がいるのか!!!とびっくり仰天だ。

キウイフルーツにかぶりつく場面があるのだが、いかにも気持ち悪い。だって、キウイの果肉はとってもジューシーでおいしいけれど、皮はちくちくして食べられたもんじゃない。それなのに皮ごとかぶりつくなんて、その人が狂気の中にいることの証左だ。

誰かのお弔いをみだらなと言う表現をするほど行ってしまう、狂気の人々を描いた気持ちの悪い連作集。(褒めています)

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