著者 小川洋子

記憶が80分しか続かない老数学博士と、28歳の家政婦とその幼い息子との交流を描く。

数字を通してしか交流できない人

博士は、優れた数学の才能を持っていながら、交通事故に巻き込まれ脳に障害を負い、17年前の1975年以降は80分で記憶が更新されるようになった。そのため、体中に張り付けているメモを見て暮らさなければならない。当然ほとんど外出できない。

博士の義理の姉は別棟の母屋に暮らしているが、ほとんど交流はない。そのために家政婦を雇い、食事と身の回りの簡単な世話を委託する。語り手の家政婦さんが雇われるまでに何人もの家政婦が辞めていったらしい。

その人らしさを示すものは何か。職場で毎日顔を合わせるのに、毎回初対面の挨拶から始めなければならないとしたら、ずいぶん大変だろう。こちらがどんなに親しみを感じていても、向こうが全く覚えていてくれないと寂しい。

そんなことで以前の家政婦さんたちはやめていったかどうかは分からないが、博士のもとで働くのは大変そうだ。

博士は、家政婦さんにまず靴のサイズを聞く。電話番号を聞く。そしてしばらくしてから、誕生日を聞く。

「2月20日です」と答えると、今度は、自分の腕時計に刻まれたNo.284という数字を示し、220と284は「友愛数」であると言う。

靴のサイズ24でも、電話番号5761455であっても、博士はたちどころにその数字の特徴を言うことができる。24は4の階乗であり、「じつに潔い」。5761455は、1億までの間に存在する素数の個数である。そして、220と284は、お互いがお互いの約数の和であり、友愛数だ。大変に特別な間柄なのだ。

それがどうした、と、数字など買い物の際のお釣りの計算でしか日常ほとんど使わない者からしたら思うだろう。

以前の家政婦さんたちはそう思ってうんざりしたに違いない。ところが語り手の家政婦さんは、博士の言葉を聞いて感心する。数字にそのような特別な意味や関係性があるのかと。そして、自分の誕生日と博士の腕時計に刻まれた数字が友愛数であることに何かを感じ取る。

人と人はいろいろな方法でコミュニケーションする。記憶が80分しか続かない博士は、数学を通してしかコミュニケーションすることができない。なぜなら数学は一切の矛盾がなく不変だから。けれども、普通の人は言葉やしぐさや目つきや昨日見たテレビ番組や芸能ネタや天気の話に慣れている。博士の好きな素数とか、階乗とか、ましてや友愛数なんてどこの数字オタクのネタなんだ、と思うだろう。

でも家政婦さんは、博士の示す数字の不思議さ、美しさに共感する。そして博士の純粋さをとても尊いものだと感じている。

記憶のない人のその人らしさとは…

博士の優しさは、彼がルートと呼ぶ家政婦さんの息子が加わることで遺憾なく発揮される。博士自身がそうとうか弱く頼りない存在であるにもかかわらず、幼い人へのいたわりや優しさを持っている。家政婦さんはそんな博士をますます敬愛する。もちろん、ルートも博士が大好きだ。

お互いが好意を持つもの同士なのだから、一緒にいて幸せなはずだ。ところが、彼らは本当の家族ではないし、友達としてふるまうことも許されない。家政婦さんは博士の義姉から雇われた人だからだ。

3人で過ごす何気ない日常が、四季の自然とともに描写され、美しい。ところが同時に悲しい。小川洋子の小説がいつもそうであるように、読者には終わりが見えるからだ。この美しくて優しい時間は長く続かないとわかるからだ。

家族愛か、友情か

若い家政婦さんは、博士を尊敬し、愛するようになり、単純に博士のためにいろいろなことを思いつき、実行する。それは博士のためでもあるが、大部分は自分と息子ルートのためだ。好きな人と一緒の時間を楽しむために外出したりパーティーをするのは、普通ならなにも非難される言われはない。けれども、記憶が80分しか持たない博士にとっては一つ一つが難行だ。突然見知らぬ場所に放り込まれ、普段と違う環境に家の中が変わっている。いちいちメモを見ないと前後の経緯が確認できない人にとって大変なショックなのではないだろうか。若くて純粋な家政婦さんにはそれが分からない。息子ルートのためにという母親としての望みの前には博士の症状に最大限に発揮されていた思いやりも脇によけられてしまう。

義姉の謎

義姉は、最初ずいぶん冷たい人のように登場する。離れのもめ事は一切母屋に知らせないでくれ、と言い、博士のために奔走する家政婦さんや博士を慕ってやってくるルートを「何が目的か」と詰問したりする。

義姉は、もう思いつく限りのことをやり尽くして疲れ切っているように見える。どんなに愛していても、100%その人のために尽くすのは難しい。若い家政婦さんの博士に尽くす様子を見て、報われない行為だと思っていたのではないか。昔の自分を思い出して苦しんでいたのではないか。

博士がとうとう施設に移ると決まった時、義姉が語った言葉「義弟はあなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは一生忘れません」この言葉は、はじめは家政婦さんへの勝利宣言かに見えた。でも本当は義弟から一生離れられない覚悟だったのかもしれない。諦めかもしれない。若い家政婦さんとルートは、博士に縛られていてはいけない。縛ることもできない。でも家族である義姉は報われなくても年老いてもお互いに死ぬまで離れることができない。

義姉もかつて家政婦さんのように博士を理解し、愛したことが、あるできごとではっきりとわかる。そのことをきっかけに義姉は家政婦さんとその息子ルートのことも受け入れるようになった。

家政婦さんと義姉は同一人物の現在と過去か、現在と未来だ。

父親的なもの

家政婦さんにとってもルートにとっても、博士は父親的な存在だ。父親不在の家族も小川洋子の小説によく登場する。

家政婦さんが博士を男性として愛していたのか、父親のように慕っていたのか、どちらかに区別できるものではない。ただ一つだけ、とても官能的なシーンはあった。誰かが誰かを好きになるとき、同性同士でも、異性愛的な感情を持つし、親子ほど年の離れたカップルも現実に存在する。博士よりもずっと年下である家政婦さんは、はじめはむしろ博士を守りたいような感情から始まったのではないかと思う。好意をもつきっかけはさまざまだ。でも庇護してくれる存在が希薄な家政婦さんにとっては、父親の面影を追っていることが多いような気はする。

父は、風のようにやってきて、また去っていく。外の風を持ってくるのが父親だ。80分で初対面になる博士は、そんな存在そのままだ。家政婦さんは男性としてよりも父として博士を愛したと思う。自分のしている日常の料理を博士が「好きだ」と言ってくれたことで、つまらない雑用が社会に貢献する尊い行為のように感じる。家庭の中以外の価値を与えてくれる。それは人の感情をとても安定させてくれるものだ。自分は生きていてもいい、この世で価値のある存在だと認定されたと感じる。

自分に自信のない人に、よく「自分を大切に」とか「自分を愛しなさい」とか言うものがある。会ってもいないのに、「あなたにはかけがえのない価値がある」と声高に書かれていても(描写に矛盾があるが)説得力がない。人の心に響くのは自分だけに向かって直に送られた言葉だけだ。

小川洋子の世界

チェスを知らなくても、チェスの棋譜の美しさを伝えたように、数学があんまり好きじゃない人にも数学の美しさを伝えている。家族小説であり、お仕事小説でもあり、数学入門小説。

小川洋子の小説は静かで美しいが、時々ものすごくグロテスクで不条理。でもこの物語はそんな怖ろしさはあまりない。

この小説は映画化されている。そちらもとてもよかった。小説の雰囲気をそのまま伝えていると思う。

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