ことり
著者 小川洋子 小鳥の小父さんと呼ばれた男性の物語。 男性の7つ上の兄は、10代の初めで人の言葉を話さなくなる。弟である小鳥の小父さんだけが、兄の言葉を理解し、他のみんなに伝えることができた。それはポーポー語という言葉だ。兄は自宅の近くにある幼稚園の鳥小屋にいる小鳥たちの言葉に耳を澄ませているうちにその言葉、ポーポー語しか話せなくなってしまった。 兄は、兄だけが住んでいる小島に行ってしまった。弟の小鳥の小父さんしかその小島に行ける船を持っていない。人間の言葉を話さない兄は、学校にも行けないし、職に就くこともできない。小鳥の小父さんは、兄と人間界の橋渡しをしなければならない。 兄と弟の暮らしは、両親が亡くなった後も続く。弟は働きながら、兄との暮らしを支えていく。二人の暮らしは贅沢ではないけれど、それなりの穏やかさと秩序を保って続けられる。 社会に適合できない人。それは一定数いるはずだ。人間の言葉を話さない兄は何の例えなんだろう。兄弟の母親は、兄の言葉は自分たちが知らないだけで、どこかの島の言葉なのではないかと言語学者に相談する。一生懸命に兄の言うことを理解しようとする。しかしその願いがかなうことはない。一方父親は兄を恐れるように仕事に逃げ込んで関わらろうとしない。子育てを妻に丸投げして仕事を言い訳に面倒ごとから逃げる父親。何を恐れているのだろう。 この兄弟は、幸いなことに親の老後のために苦しむことは免れている。早めにいなくなってくれた両親の家で穏やかに時を過ごしていく。小さな事件や行き違いが起こっても、やがてまた静かな生活が戻ってくる。そして、兄も人生の終わりを迎える。 7つも年下の小父さんの暮らしは続く。兄のために生きてきた小父さんは、兄がいなくなると兄がいつも耳を澄ませて聞いていた小鳥たちの世話をする。幼稚園の敷地内にある鳥小屋の世話だ。 静かな生活の中でも小さな恋が生まれる。そして、それが実らないまま終わると、小父さんにとってとても理不尽で苦しい状況に置かれてしまう。 誰かのために尽くし続ける生活。それを失った後、小父さんはもう自分のために何かすることができない。幼いころに刷り込まれた兄の言葉の通訳をすること、兄の好きだった小鳥たちの世話をすること、そして小鳥にまつわる本を読むこと。小父さんができるのはこれだけになった。 小父さんは見返りを求めない。兄に対しても、小鳥にも。兄の言葉を理解し、小鳥のさえずりを聞き分ける。小鳥の方では小父さんのことをどう思っているのかわからないのに。 終盤では、同じように小鳥にかかわる人間たちが登場するが、その様子は小父さんとは対照的だ。小鳥を利用して自分の金もうけの道具にする。鳥の習性を悪用する。小父さんにはそうとしか映らない。小鳥たちに対して敬う心など少しもない。 メジロの鳴き合わせ会というものがあることは知っていた。ずいぶん風流な活動だな、と思っていたのだが、この物語では嫌悪感丸出しだ。実際にそれを行っている人たちはどう思うかな。私はテレビで見かけただけだが、確かにやること自体は風流なんだが、なんか泥臭いオジサンたちの活動のようだった。闘犬とか、闘鶏のおもむきだ。勝ち負けを競うものではなく、ただ鳥の歌声を鑑賞するものだと思っていたから、意外だった。そもそも、自然の発露である小鳥の鳴き声に人間の勝手な解釈で優劣をつけ一喜一憂することが浅ましいことなんじゃないかと思う。中年の男たちがメジロを鳴かせようとメスのメジロになり切って笛を吹く様子が滑稽かつ醜悪に描かれる。 ただ静かに暮らしていた小父さんはメジロを利用するこの活動が許せない。小父さんが初めて拒絶と攻撃の行動に出た。理不尽な言いがかりにも何も反論せず、ただじっと耐えていた小父さんなのに。この怒りは何だろう。 この本を読む前に、たまたま庭にメジロが来た。時々来るけど、スズメやヒヨドリほど頻繁ではない。地味な緑色を、小川洋子は遠慮深い、と表現する。インコやオウムのような緑色ではない。それでも、他の小鳥たちに比べて木々の葉の間にぴょんぴょん飛んでいるとすぐわかる。あっという間にどこかにいってしまい、鳴き声をゆっくり聞くことはできなかった。 小鳥の小父さんの生涯は誰からもかえりみられず、家族がいなくて独身だというだけであらぬ疑いをかけられたりする。けれども小父さんの物語を美しいと感じる。こんなに無垢な小父さんがこの世にいるとは思えないけれども。 小鳥の小父さんの生活を今の自分の生活になぞらえてみる。お兄さんは夫だ。小鳥は猫かな。このまま時を過ごしてやがて一人になったら、私も通りすがりの猫を抱いて死ねたらそれはそれで幸せなんじゃないかと思う。 誰かのために生きる人への優しさを感じる物語だった。  
おすすめの記事